もっと交感したい。会場にいて作家が説明するんじゃダメだった。めんどくさがって本音を話せないから。メモ書きならいけるかな。作品の解説なんて野暮かな。でもどうしても言葉も使いたくなった。トーキョーデブリスが始まる前日の深夜に渋谷のホテルでこれを書いてる。ヴァージル・アブローは急に死んじゃった。2019年新宿御苑でLVコレクションの撮影をしたときに彼に会った。俺はスカしちゃって一緒に写真撮ったりしなかった。EVERYTHING_1を渡してインスタフォローしてもらった。英語がしゃべれないからと言い訳をしたけど本当はもう一歩踏み込むのが億劫で、たいしたことない言葉を二、三交わした。もう一歩踏み込めばよかった。もう一言記憶に残る会話をすればよかった。そんなことばっかり繰り返してる。いろんな角度から対話することサボってると最後は自分が死ぬ時に後悔するんだって師匠が言ってた。それってやだな。自分の展示見てそれが生きてるか死んでるかわかる。風が吹き抜けたり熱が籠ってたりしなきゃイヤなんだけど、綺麗にまとめる才能が強すぎる。だからこうやってテキストがあれば息が通るかなと思ってやってる。

仮想の鏡は誰も映し出さない。
虚空から生じた煌めきが魅惑的に演算を繰り返し走り廻っている。
そこには重力がない。時間も存在しない。
ただキラキラ光っている。

美術史におけるイリュージョンの問題ってGUIに引き継がれたと思う。GUIの極地って3D(CG)なんじゃないかって2022年の俺は思ってる。だってそれってVRディスプレイに映し出されるにせよ網膜に映写されるにせよ本当は2Dじゃん。俺たちが3Dって言って想起してるのって二次元上のイリュージョンのことじゃない?3Dとして俺たちが扱えるものは俺たちがこのとにかく多次元だってことだけわかってる現実空間から理解できた僅かな部分だけ。それが資本の集合と産業の生存競争を経てGUIとして実を結んでいくわけだからそれを見つめたら直感的に今の時代の空間把握をキャッチできると思う。人工を自然のように観察してみてさ。

そんなこと小賢しく考えていた。
師匠に会ってブチのめされた。

体の多角的な運動性や触覚による繊細な空間把握は視覚や脳内概念の空間把握を遥かに上回るんだって。視覚や思考に極端に偏った空間把握が今の文明文化の限界なんだって。師匠の複雑深淵かつユーモラスで魅力的な語りや圧倒的に色気のあるいろんな角度や回転と情緒を表現した体さばきをいつも見せてもらってそれが本当なんだって俺はわかった。師匠の教えを俺が言葉にすることはできない、だって俺体ができてないもん。俺は自分の限界を知りながらそれでも作品を作り続けてる。

それでこの展示は鏡がテーマの一つなんだけどあの円形の写真から見始めるのがいいと思ってる。CGで作られた鏡をバーチャルなカメラで撮影した白いやつ。これから訪れるであろう視覚文明最盛期の奥に潜むニヒルな煌めきを結構魅力的に描けたと思う。天球だけが鏡面に映り込んで人っ子一人いなくて、それを写しているカメラもそれを覗き込む撮影者もいない。そんな鏡のデブリスがただ孤独に反射し合っている。鏡は現実を観察する道具であってその中に飛び込むためのものじゃない。作品が照らし出すのは俺たちの体験や感情や思い出から来るもので、それがデブリってこうなってる。

ストロークがこんなに延びていくならそこにもっとメッセージ載せたい。インフラ造るのも大事だけど結局そこに何を流すべきか俺たちはずっと問われてる。それがまったく新しい質の、だけどずっと懐かしい情緒だってことを俺は知ってる、教えてもらったから。知ってるだけで表現からは零れちゃってる。俺の体が拾い上げられない情緒があるように。
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